洋墨一滴
新しい文豪が来ても俺の本を読むスピードは変わらない。ひねくれた文章を読みながらコイツは何を思って書いてたんだろうな、と思った。 「おや、眉間にシワが寄っていますよ」 「……。はぁ、すみません」 「ふはっ。いえいえ」 江戸川乱歩だった。彼の著作、D坂の殺人事件が浄化されたと思ったら学術雑誌というよりも変な雑誌たちの潜書が可能になったからよく覚えている。怪盗二十面相がモチーフになっているのか真っ白な服に青い裏地が映える男だった。全く暗闇に紛れないけれどかっこよかったらアリなのだろう。 俺が持っているの夢野久作の短編集だ。なのに江戸川の方が寄ってきてニマニマして離れない。もしかしてこの席に座りたいのだろうかと思って立ったら「おや、もう読まれないのですか?」と言われた。席をどけと言いたいのではないらしい。 談話室の一隅で席を譲るのか譲らないのかとやっていたらまた違う文豪に見つかった。 「何してるんですか、そんな隅で」 「ああ、秋声さん。いえ#名前1#くんが夢野くんの本を読んでいたものですから」 「へぇー、君もうそんなところまで?」 徳田に聞かれて頷いた。本を読む順番は図書館に来た順番にしていたからだ。徳田の著作のあらくれは一番最初に読んで「うわっ」と存外につまらなかったという感想を聞かせてしまい、それ以来彼とはずっとぐだぐたとした関係である。文学に疎い#名前2#にはあのような赤裸々な現実的な話に着いていけなかったのだった。徳田の言葉はある意味嫌味にも取れたが#名前2#は気にすることもなかった。 「めちゃくちゃ長かったけどここまで来た」 ほら、と手にして見せた夢野久作の本に徳田はふん、と軽い言葉で流した。そのまま立ち去るのかと思いきや徳田は#名前2#が先程まで座っていた席の隣に座った。#名前2#は驚いた顔を見せたが乱歩にとっては面白くて仕方ない。 「ねえ、先生が君から貰ったお菓子をまたご所望なんだけど」 徳田はまだ話かけてくる。#名前2#もこれは仕方ない、とまた着席した。乱歩も興味が湧いて別のテーブルから席を持ってくる。隅によく分からない三角形の席ができた。真ん中では白樺派が今度新しく来るという文豪について話していた。 「あのお菓子は期間限定なんだ、いつも食べられるわけじゃない」 「そうなんだ?」 「ブドウのケーキだ。本当はアカとアオと司書に買っていこうと思ったんだがあまりにも尾崎に見つめられて1切れ分けた」 まるでおすそ分けしたような物言いだった。事実#名前2#にとってはその程度のことなのである。徳田はまた自分と彼らとで分けられている気がして腹が立った。この男は文豪と人間とを分けているのが無性に腹が立つのだ。 「……分かった、先生にはそう伝えとく」 「何なら自分で作ってもいいんじゃないか。ケーキくらい簡単に作れるだろ」 「え?」 「そうなんですか?」 これまで黙っていた乱歩が入ってきた。徳田と#名前2#との殺伐とした会話には似つかわしくない可愛らしい話題が来たので思わず声に出してしまったのだった。徳田が見つめるので#名前2#は居心地が悪そうにして「司書に聞けば教えてくれると思う。あの人、料理は科学だとかなんか言ってたから」と話す。 「うん……じゃあ今度聞いてみる」 「楽しそうですね。作る時にはぜひ私も呼んで下さい」 「なんでだよ……」 #名前2#の疲れたようなツッコミでその集まりは解散になった。休憩時間が終わり彼はまた雑用係の仕事に戻るのだ。全く進まなかった夢野久作の本を持って彼はのそのそと歩いていった。 #名前2#は仕事を終えると自分の怪我を治療しに医務室へと向かっていた。プロレタリア組と呼ばれる彼らが#名前2#のために医務室も使えるように報告書を提出してくれたのだ。世間体と逸材という言葉に弱い上の人間たちはすぐに許可をくれた。なので#名前2#は今では医務室の常連になっているのだが、今までまともな薬など使ってこなかったためにどうしても森がいないだろうなという時間を狙うようになっていた。しかし森とて馬鹿ではない。こっそり入ってきた#名前2#を捕まえて治療を受けさせた。 包帯を結ばれて不便を感じながらプレハブに戻ろうとしたら食堂で誰かがいるのを見た。中を覗くと正岡子規であった。つまみ食いかと思いきや彼はただ眠れず水を取りに来ただけらしかった。 「正岡、寝ないのか」 「#名前2#!? いや、お前こそ。なんだよこの時間に」 「あんまりにも体が酷くて休んで点滴を受けろって……」 それでこんな時間になったのだ。正岡はにひひと笑って「水でも飲んでくか?」と言う。 「いいよ、いらない」 「つれないな」 「お前の方こそどうしたんだ」 弟子たちが心配するぞ、と言う#名前2#に正岡は顔を曇らせた。あ、これはまずいな、と#名前2#も理解出来た。逃げようかと思ったがそんな時間はなかった。 「いや、なに。俺は無事だと思ってるんだがな。どうにも弟子たちにはそうは見えないらしい」 確かに正岡たちの弟子の3人はものすごく過保護だ。のぼさんのぼさん、と囀りながらその後ろを着いていく姿はなんとなく面白い。 #名前2#と正岡とは早くに来た頃からキャッチボールをしている仲間だった。その点から弟子たち3人には#名前2#は羨み妬みというものがあったが仕方ないことだと受け流していた。 「あいつらに会うのを心待ちにしていたんだが、会ったらそれはそれで面倒くささもあってなあ。まあ、ちょっとしたワガママだ」 「へー」 「すまん、つまらなかったな」 「つまらん。羨ましいと思う」 #名前2#の素直な言葉に正岡はえ、と声を上げた。#名前2#は正岡を見ないまま「俺にはそんな家族はいないからな。羨ましい」と言うのだった。 「羨ましいかぁ」 「なんだ?」 「そんな風には見えないよなぁーって思ってさ」 「そうか?」 #名前2#とて家族への憧れはある。だが、自分という人間の足りなさといったらない。 「ああ、これだけは言っておくと。羨ましいとは思うが、無理に大事にしろよとは思わない。正岡は普通にしてればいいんじゃないか」 正岡はきょとんとした顔になったがばしばしと#名前2#の肩を叩きもう寝るよと声をかけた。俺も寝るか、と立ち上がった#名前2#の腕時計は既に1時を過ぎていた。明日の昼休みは寝よう、と決意した瞬間だった。