破戒のち逃亡
いつも通りの出勤は門をくぐるまでで#名前2#は早々に司書室へ連行された。手錠をかけられ逃がさないように壁に結ばれる。まるで犯罪者のようだった。被害者はもちろん文豪。島崎藤村はぐしゃぐしゃの髪の毛と昨日から着替えてないらしい服のまま助手の席に座っていた。 「島崎藤村は耗弱状態にあります。昨日のあの旅の後、市原陽奈子の話をしたあと突然……。あなたを呼び出せと叫び続けていました」 「はあ」 「何か理由はあるんでしょうか」 「先月の休みだった日は市原陽奈子の三周忌でした。ですので、昨日は月命日として墓参りに。私の妻であると勘違いしていましたが、陽奈子は男と結婚する前に事故で亡くなりましたから。お話した言葉としては何も問題ないかと」 「でもわざとだ」 島崎は髪の毛を掻きむしりながら#名前2#を睨んだ。僕を騙して楽しかった?と言葉を繋げる。#名前2#の言葉などお構い無しに弾丸のように言葉を投げつけた。 「僕のこと見て笑ったの? 馬鹿なヤツだって? お前が、お前の言葉が…! あの行動に意味をなくして、わざと僕を欺いた! あああああ、お前だ、お前が悪いんだ!!」 「でしたら私をどうしますか」 #名前2#の返事に島崎はぴたりと体を止めた。ぽつりと「僕に君のことを教えてよ」と言うのだった。 館長たちの行った検査によると文豪たちにはトリガーがあるということだった。島崎藤村の場合は嘘の情報と家族の恋愛。2種類のトリガーが引っかかることにより耗弱状態を強制的に引き起こすのではというのが現在の仮定である。症例が一つしかないためトリガーという言葉も暫時的につけられた名前である。#名前2#は適当に頷きながら島崎藤村がどうやったら回復するのかという実験に付き合うことになった。今までの社宅生活をやめ、緊急有碍書を溜め込んだ本棚のひと隅に机と椅子と寝袋とを用意してそこで過ごすことにした。アカとアオは元から図書館で暮らす予定だったため部屋がある。時たま彼らの部屋に邪魔して一緒に寝ることもあったが基本は本棚の間だった。 島崎は寝る時とトイレに行く時以外は基本的に何でも着いてこようとした。おかげで#名前2#の仕事は終わらず学術雑誌への潜書はほとんどしていなかった。 食器を洗い、共用スペースと廊下を掃除、本棚の本にホコリがつかないようハタキと空気清浄機の稼働、庭の掃除と水やり、風呂場の掃除。いつも通りの仕事だが島崎と同じ自然主義の男達、特に田山と国木田は#名前2#に最初は厳しい目を向けていたが今では何だか可哀想な目で見られている。 島崎に見られているのが嫌だという芥川は何だかのびのびとしていて、それにつられて太宰も元気になる。困ったのは島崎に憧れていたメンツだった。特に北原と梶井は#名前2#への視線が鋭くとがったままで周りから謝罪を受け取る始末だった。島崎は気にした様子もなく「これは好きなこと?」「これは嫌いなんだね。しかめ面で食べてる」など観察するのだった。だが情報を得る度に彼の傷はだんだんと薄くなっていた。動く時に痛がる気配もなくなる。いい傾向だと思っていたのだが問題が発生した。 朝起きると顔が何かで濡れているのが分かった。ぬめりとして独特の匂いを放つそれは文豪たちの体に流れる特殊なインクだった。起き上がると島崎が膝を曲げて座っていた。がじりと噛んだ指からインクがぼたぼたと流れ落ちている。 「しま、ざき……」 「おはよう」 「お前、その指っ……!」 「#名前2#も同じ怪我をしたのに僕だけは補修を受けるんだ。それっておかしいでしょ?」 ひどい隈をつけた顔で島崎は微笑んだ。メイクで隠していたらしく擦った指にファンデーションがついた。補修を受けてくれと#名前2#の方から頼むことは初めてだった。島崎はきょとんとした顔を見せたあとインクまみれの口を開いて「#名前2#が言うなら」と笑った。 補修を受けた彼を見てネコは「もう使い物にならないだろう」と言い捨てた。 「最初から何もかもが間違っていたのだ。強制的な耗弱を引き起こすトリガーなどあるはずがない。こいつらの精神に素体が引きずられたのだろう。精神が普通から不安定にまで落ち込んでいる」 ぱさりと口で捨てられたカルテには確かに精神不安定の文字が見られた。司書も館長も唇を噛み締める。#名前2#は仕方なく「では、このような案はいかがでしょうか」と実験の記録と仮説についてまとめたレポートを提出した。 ネコの仮説、館長らの仮説、どちらが正しいのかは分からないが島崎藤村がこのままの状態なのは図書館にとって大きな負担である。そのため、#名前2#が提案したのは彼に自分の本へと潜書させるということだった。 「喪失状態ならば絶筆するかもしれないが、耗弱状態ならばその限りではない、でしたよね?」 「確かにそうだが……。いささか荒療治じゃないか」 「島崎藤村は俺を隠れ蓑にしているだけですよ。あいつは今の自分を見つめられないだけなんだ」 島崎はがしりと#名前2#の腕を掴んだ。芥川の言う歯車が彼の視界にも回っている。だが、これだけは必ず言わなければならなかった。 「僕を、捨てないで」 僕を見て。ちゃんとその目で僕を見て。僕は、ここにいるんだよ。 「見てるよ」 暖かい手だった。初めて触れ合った体温だった。#名前2#は握った手を離さないまま館長たちと話を続けていた。インクが体に満たされていく。たった少しのつながりなのに島崎はどうしてだかこの手に縋りたくなっていた。この手だ。この手を、僕は待っていた。 島崎藤村が少しだけ安定した。作戦を伝え、同じく自然主義のメンバーで固めて潜書させる。#名前2#へのあの視線は無くなり、ただ前だけを見ていた。#名前2#に有碍書の潜書はできない。ただ待っているだけだ。耗弱状態のくせに一流の回避で島崎藤村は傷を避けて無事に浄化して帰ってきた。戻ってきた4人を見て司書たちがほっと安堵の息をつく。 「瀬川には会えたのか」 #名前2#の投げかけた言葉に島崎はふっと笑って「そんなの僕が分かるわけないじゃない」と言った。 島崎はその後、精神普通に戻り今まで通り文豪たちのスクープを国木田と探しに行くようになった。それを見て#名前2#は安心し、また自分の家に帰ることにしたのに。 「ねえ、僕も連れてってよ」 「嫌だ」 「どうして? 邪魔はしないよ?」 「狭っくるしい。夜中眠れなくなる」 「じゃあ一緒に起きてようよ。深夜のお散歩も楽しいよ」 「そういう話じゃない」 島崎は家に帰る#名前2#を捕まえては一問答起こした。本当に家に帰らせない訳では無いらしいく彼なりのコミュニケーションというものだろうか。