無亡君の死

#死ネタ

 ――死んだ男を自分のものにするためにはどうすればよいのだろうか。
 水木はそんなことを考えていた。
 ――水木、おい水木。
 声をかけられて自分がぼんやりとしていたことに気がついた。いない。あの男がまた見えなくなってしまった。
 指先の煙草がどんどんと灰に変わっている。同僚は火傷を心配してくれたらしい。
「すまん」
「珍しいな、お前がそんなふうになるなんて」
「そんなふうってなんだ」
 と水木は軽口を叩くが実際のところ何をイメージさせているかは分かっていた。その昔、ここで働く前の水木そのものだったから。
「……まだ戦場にいってるやつ、だな」
 それはある意味では正解だ。水木はまだこの現実に馴染めている気がしない。
 ちびた煙草を靴ですり潰し、水木は新しい一本を取り出した。煙に覆われたここでは彼を思い出すことなどないと思っていたのに、彼はゆらゆらと揺れる煙の中にひっそりと佇んで水木に向かって微笑んでいる。
 いる。それが分かるだけで水木は一安心だった。
「水木?」
「ああ」
「聞いてるか、三越の話」
「いや全く」
 適当な相槌をうちながら水木は男のことをじっと見ていた。男は微笑んだまま何も話しかけてこない。口はある。足もある。幽霊ではなさそうだ。ないと思う。
 頭のおかしい話だが、水木には現在まぼろしが見えていた。誰にも見えない、水木だけが知っているまぼろしである。
 水木の人生に大きな穿刺があるとすればそれは戦争のせいだが、もうひとつの影響を考えるならばそれはとある男が死んだせいだった。その男が死んだという電報をもらってから水木のみる世界にどこか色が落ちている気がしている。色あせて苦しいということもない。ただ、何かある度にその男を思い出しては今度会った時に話してやろうと思ってそんな機会がないことを思い出すのだった。
 ナナシ。口ずさむと本当にそんな男がいたのか心配になってしまうが、確かにいた。水木の横で快活に笑って「五十六にいって何か漁らないか、興味深いものがあるかもしれん」なんて言って街へ繰り出していく男だった。彼の姿もまるで昨日も会ったかのように自然と思い出される。ぶかぶかのジャケット、くしゃくしゃのシャツ、ちょろっと体重が偏る歩き方をする男だった。戦時下での怪我が原因らしく、天気の悪い日には脚をさすっていた。そこまでクッキリと覚えている。のに、彼の声が思い出せない。彼はどんな声をしていたか。男らしい低い声だったか、柔らかい声だったか、重みのある声だったか。まったく思い出されない。ただ記憶の中に彼は微笑むだけだった。
 無亡と書いてナナシと読む、冗談のような苗字をしていた男だった。あだ名は権兵衛。分かりやすく「ゴンさん」だとか「ナナシ」と呼ばれていた。
 ナナシが水木の前に表れるようになったのはいつからだったかよく覚えていない。気がついたら家の縁側にあらわれて日向を浴びてゆっくりとしていた。あまりにも自然にいたので、水木はつい「ナナシ、来てたのか」と声をかけていた。ナナシはゆっくりと振り返り笑った。そのぼやけて透けた姿を見て、そういえばこの男は既に死んでいるのではなかったかと水木は思い出した。

 ナナシは水木が時たま顔を青くさせる位には真っ当な性格をしていた。そんな真っ直ぐすぎる性格も、水木は心の底から信頼できる男だと信じていたし、困った時に彼に声をかけることも少なくなかった。

 そんな彼が亡くなった。結婚してからまだ一年も経たないうちの不幸の知らせに水木は血の気がひいたようだった。

 結婚が人生の墓場だと言うのなら、水木はナナシの墓には行かなかったと言えるだろう。本当に行かないのかい、と母は心配していたが水木は自分の意地を張り通した。あとから出てきた女がナナシのこれからの人生を受け取れるなんていう事実によって鳩尾が捻れるような痛みを感じていることに、水木は自分を恥じた。ナナシとずっと一緒にいられると心のどこかでは思っていた。ナナシのためにも結婚式に出席するべきではないと思ったのだ。

 ナナシは婿入りするとかで苗字を変えることが決まり、東京以外の場所へ行くことも決まっていたのである。細かい話はわざと聞かなかったが、ナナシが幸せそうに笑うので水木はなにも言えなかった。

 金のために血を売る人間がいる。それをナナシは快く思ってはいなかった。仕方がないと割り切って尚「そんなことまで金がすみつくようになってしまった」と苦い顔をしていた。

 水木はむしろ自分の全てを使ってでも生き延びるその人間たちの生き方を悪くいうことはできなかった。生きていくために何でもするのは戦場で水木が行っていたことと重なった。

 ナナシであろうとも、生き方が高尚であれ、と言われることが重かった。




02

 龍賀一族の長が亡くなるという知らせを水木の耳は聞き逃さなかった。懇意にさせてもらっている克典が次期当主になるであろうことは明らかだった。そもそも嫡男である時麿は随分と表社会に出てこられない人だ。克典が龍賀製薬を背負っているのもその流れと言えるだろう。

「わたしに行かせてください」

 そう声を上げたのは、自分の昇進のためであった。克典が宴会の席でこぼした「哭倉村」の居場所を突き止めたのもこのためだった。

 社長も部長も水木にあれそれと言いながら、本当に引き留めようとはしていなかった。水木は踏み込むように「行かせてください」と重ねて言った。

 そうして会社を飛び出してきた水木は夜行列車に揺られていた。長いトンネルを走り抜ける光景を見て、ナナシと二人で汽車に乗って知らない駅まで行ってみるという遊びをしたことを思い出した。ナナシがすべてを支払い、ふたりで汽車に揺られてただ乗っていた。あの時にはまさかナナシが結婚するなんて思ってもみなかったし自分がまたしても会社の奴隷のような存在になるとは思ってもみなかった。

 煙草の煙にゆられてナナシが表れる。そしてケホケホと咳をする女児を指さしてなにか言いたそうな視線で水木を見つめた。

 仕方がない、と水木が煙草をその一本で終わらせようとするとふと人がいなくなっていることに気がついた。あんなに人がいたはずなのに。照明まで落ちている。

「お主……」

 男の声がした。窓の向こう側にうつっている? いや、反対側の座席に男がいた。

「は」
「なぜソイツを従えている?」
 片目の隠れた着流しの男がぼうっと床を見つめて滔々と語った。
「わしには見えるのじゃ。見えないモノが見えるのじゃ」
「なにボケたことを言ってるんだじいさん! さっさと家に」
 言葉が途切れたのはナナシがその男の傍に近づいたからだった。
「お主は本当に死んだのか?」
 ようやく顔を上げた男は、ざっくばらんの髪の毛の中に見えるぎょろついた片目をうるませて「ナマエ」と呟いた。
「わしの妻も、死んだのか」
 ナナシが首を振る。一体何が起きているのか分からなかったが、ひとつだけ確かなことは水木のみる幻はいま確かに自分の手を離れてしまったことだった。

「ナナシ!」

 水木の叫びでぶぉん、と音が戻った。さっきまで聞こえなくなっていた汽車の音、少女の咳き込む音が耳をぶった。通路を急いでみてみるがさっきまでいたはずの着流しの男もナナシもいなくなっていた。
「一体何が……」
 もう一本煙草を吸おうとして、つい先程ナナシに窘められたことを思い出す。仕方がなく水木は席に戻り、哭倉村にはやく着かないかと眠ることにした。