嬉しいの基準
環状線ではない電車で隣の男が眠りこけている。あと5分もしないうちに最終駅に着く。どこで降りるのか全く知らないサラリーマンだ。声をかけようかかけまいか迷って結局怖くてやめた。 こんな時間に帰るのは初めてで、スマホで母に迎えをお願いするメッセージを送った。不審者がいるとは聞かないけれど酔っぱらいの人に絡まれるのは怖かった。 終点に着いた。隣の人の頭を押してホームへ降りた。定期券を駅員さんに見せて待合室に行く。母を待っていたらさっきの男の人がやばいやばいと呟きながらこっちにやってきた。もっと前の駅で降りるはずだったのか、「出費が……」と言っている。地方の線路はまあまあお金がかかる。仕方ない。 男の人はスマホを見て「あ」と呟いた。こっちを向いている。どうせなら駅員さんに話しかけてよと思った。 「ほんとうに申し訳ないです……」 「大丈夫、です」 スマホが返された。男の人は自己紹介と名刺をくれた。#名前1##名前2#と書いてある。会社の名前も私ですら知っているようなところだった。 #名前1#さんは私に、落ちていたというキーホルダーを返して、スマホを貸してくれるよう頼んだ。キーホルダーはさっさと返しとけよと思ったけれど、今の人はセクハラとか色々厳しいから仕方ないと自分を納得させた。 #名前1#さんはまあまあ話がうまかった。母の迎えが来るまでの時間はかなり短く感じた。#名前1#さん、どうするんですかと聞いたら「息子が迎えに来るんだ」と笑った。若そうな見た目なのにもう息子がいるんだ、と少し幻滅した。この人、女の人泣かせてきたんだろうなあ。 駅に車が停まった。綺礼と自分が共用で使っている軽車だ。助手席の窓が開けられた。手を伸ばしている綺礼が顔を見せた。 「迎えに来ました」 「ありがと」 まあまあ遠い道をカーナビに案内されながら帰っていく。久々に飲み会をやったらアルコールに体がついていけず眠ってしまっていた。綺礼は俺を随分と待っていたのか、スマホのコールにすぐさま反応した。非通知にはいつも出ない主義のくせに。 「#名前2#さんがこんなに遅いのは珍しいと思ったので、何かあったのかと。非通知でも面倒な人だったらすぐさま切ります。迷惑電話として通報します」 「あっそう……」 こわい。俺の義息子、怖い。でも、何だかんだ待っててくれるのはずっと独り身続けていた男としては嬉しさがあった。 「……。何かおかしいですか」 「え?」 「笑っていたので……」 「あー、いや、綺礼が待っててくれたのが嬉しくてな」 それを聞いて綺礼はぎゅっと顔をすぼめた。夜中だし車の通りが少ないと言っても危ない。綺礼はすぐに正面をむくと「ありがとうございます」と呟いた。 そういえば昔は俺が迎えにいく側だったなあと思い出した。兄の奥さん、義姉は病気で入院しており兄は仕事が繁忙期で帰れず保育園の迎えは俺が担当していた。 それ以外にもあの女の子みたいに帰りが遅くなったのを迎えに行ったりもしたなあ。義姉に毎回写真を送ってたっけ。兄と義姉は仲良く同じ病気で亡くなった。義姉は延命治療をしたが兄はそれをすることもなかった。兄の死亡届を先に出してしまい、銀行から金を下ろしたのは随分あとのことだった。葬式は何とか身内だけで終わらせた。金はそんなにかからなかった。綺礼を引き取りたがらないやつらは挨拶だけして帰っていった。多分罪悪感はあったのだろう。おかげで金が少なく済んだ。 銀行の金は兄の遺産として綺礼に引き継がれる。相続税なんやらを行政書士の人に諸々計算してもらって綺礼の口座に入れた。 金額を最近知った。あの正月以降、綺礼は俺に精一杯養えますよアピールをしてきていたのだが、そこでようやく俺は兄がかなりの金を残していたことを知った。義姉の金もあるので本当に人をずっと養える金を持っていた。いやいや待てよ、と頭が唸った。兄は延命治療しなかった。金がないから、と。でもそこに入っていた金は兄の延命治療、綺礼の学費、ローンなど賄える額だった。まさか老後のプランでも持っていたのか? だとしたら余計に延命治療しなくてはいけないはずなのに。なんで。 「……なあ綺礼。お前さ、父さんになにかしてねえよなあ」 「……。してませんよ、もちろん」 「うん、そうだよな」 俺の勘違いであってほしい。まさか、甥っ子が企みを持って兄を早死させたなど、そんなまさかだ。 母にいつの頃か話したことがある。将来は#名前2#さんのお嫁さんになることだ、と。母はそんな私を怖がった。 「何言ってるの、綺礼。男の子はね、お嫁さんにはなれないのよ」 「? でも、それは今の話でしょう。僕が大人になったらどうなるか分かりませんよ」 「……。そうかもしれないけど、いい、皆にはそれは言っちゃダメ」 「父さんにもですか」 「そうよ」 何でだろう、と思っていたが父さんと#名前2#さんを見ていたら何となくわかった。#名前2#さんは人と線を引いて接する。その垣根を超えているのが父さんたち、私たちという家族だった。それに気づいた時とても嬉しかった。そしてすぐに父さんと#名前2#さんは特別な絆があると分かった。父さんは#名前2#さんの頼みを断らない。逆も同じだった。何にも厳しい父さんが#名前2#さんには緩みを見せるのがずるかった。父さんも#名前2#さんも大好きだったと思っていたあの頃は二人ともずるいと思っていた。 それから段々と私は#名前2#さんという人にのめり込んだ。周りにも自慢するようにその手に絡んだ。保育園の先生や駅員たち、道を行く人々。どうだ、私の叔父は素敵だろう、と。 綺麗なものを綺麗と思えない。美しいものを美しいと思えない。人が苦しむ顔がみたい。絶望に塗れた世界が見たい。 そんな生き方は#名前2#さんにも同じだった。母、#名前2#さんにとっては姉にあたる人が亡くなった時の顔は素敵だった。泣きながらうずくまるその姿を見て体がぞわぞわとなにかの感触を取った。 もう一度、その顔を見たかった。今度は正面から。 父が死んだ時、#名前2#さんは慰めるように私を抱きしめた。一瞬だがその顔が見えた。好きという気持ちがさらに強くなった。自分も泣いたふりをして抱きつくときつく抱きしめてくれた。屈強な体が泣いて震えている。醜い泣き顔で、うずくまるように、無様に泣いている。 #名前2#さんはきっと私と結婚しようという約束は忘れている。あんな子供騙しの約束、と私だって思っている。 でも。#名前2#さんが嫌がるかもしれないということと本当に結婚できるかもしれないということは、両方私にとってメリットである。 結局後者に転んだが、横でねぼけるこの人は近親相姦の罪責感で寝ている時に顔を歪めるようになった。歪められた性癖は#名前2#さんがずっと隣にいてくれるのなら誰かにバレるようなことはしない。バラすこともない。 「ずっと一緒です#名前2#さん」