私に会いたいと言って
モリアーティが英霊として登録される前の話。つまり彼が物語の中だか本当にあったか分からない世界で悪の帝王として君臨していた19世紀末の話であるが、彼には恋をした相手を殺したという非常に度し難い罪を持っていた。モリアーティにそれを説明させると「彼が悪い」と言う。その理由は彼の中ではきちんと理論づけられている。 「彼が私を惚れさせたのが悪いんだヨ」 にっこりと笑う彼に藤丸は口を歪ませて頷くだけにとどめた。 モリアーティがいた時代というのは男性同士の友情が今よりも近いがその代わりに同性愛者は犯罪者であった。モリアーティは自分が犯罪者になることなど夢にも思っていない。誰かを使い誰かに罪を被せる。人畜無害なイギリス紳士を演じている彼がまさか同性愛者という犯罪者と誰が思うだろうか。モラン大佐すらも知らない彼の秘密である。 相手の名前は#名前2#・#名前1#と言った。ワトソン医師の言葉を使えば人の良さそうな40代のくすんだ茶髪の男だった。ホームズの観察によればパン屋の主人で酒も飲まずタバコも吸わない男、独身だが最近は女に貢いでいて金がないということだった。自殺した、という警察の結論を覆せないままホームズは悔しげにこの事件から手を引いた。それもそのはず、彼を殺すことにモリアーティはそれこそ3年の年月をかけて準備していたのである。彼を殺したことが自分だとバレてはいけない。ましてやその理由を明かされてはならないのだ 彼の女房は早くに先立ち、従業員を1人抱えて小さくパン屋を営業していた。モリアーティがこのパン屋に寄ったのはただの偶然だった。何となく視界に入ってきた。それだけの理由で店の扉を開けていた。いくら神を信じないモリアーティと言えどもこの時ばかりはありもしない運命を感じた。男は平凡な姿だった。美しくもなければ頭も良くない。事故にあったのか腕には傷があった。特筆すべきことなど他にないそんな男がモリアーティには輝かしく見えた。 「いらっしゃい」 男の声は低く重みがあった。パン屋には似つかわしくない声である。モリアーティはできるだけ明るい笑顔を作った。 パンが上手い。それだけでモリアーティは店に通っていた。本当にそれだけの気持ちだった。しかし、それはいつからか恋に変わっていた。#名前2#が1人の娼婦に金を落とし始めたと分かると変に嫌な気持ちになったのだ。女を見つけ話してみると品性のかけらもなく、何でこんな女に#名前2#が話しかけに行くのかさっぱり分からなかった。彼女は誰かの恨みを買っていることもなく、モリアーティは仕方なく彼女が夢中になるような金持ちの男をけしかけた。#名前2#を相手にしなくなるだろうということを考えてだった。しかし女は#名前2#を手放さなかった。モリアーティにはその痕跡を見る度に腹立たしくなり吐き気がした。この吐き気の原因は何かモリアーティにはすぐには分からなかった。いや、分かりたくなかったのである。自分が#名前2#・#名前1#に恋してるなどと思いたくなかった。しかし現実は無情だった。#名前2#の口からついに結婚という言葉が出てきたのである。相手はもちろんあの売春婦だ。ダメだ、それはダメだ。モリアーティはこの時には恋心に敗北した。認めざるを得なかった。自分は犯罪者になる。同性愛者であり人殺しだ。それから3年の準備をかけた。#名前2#が自殺したと見せかけるための準備、あの1人の従業員に罪を被せる準備、売春婦の金のための犯行だと思わせる準備、その他色々と準備をした。そして#名前2#・#名前1#は間違いなくモリアーティの手で殺した。彼は首を縛られる間なんの抵抗もなかった。それすらもモリアーティには悲しかった。モリアーティは死んだ#名前2#の家から何か貰っていこうと思った。衝動的な行いだった。色々と迷ったがおそらく彼女に渡す予定だったのだろう手紙を見つけた。どうせ送るあてのないものである。手紙を書いていたという痕跡も消してそれを持ち帰った。 「……ねえ、モリアーティ。その手紙は」 「ああ、私宛だったよ。どうやらこの話も小説として誰かが書いたらしいね? 私は物事がどうなってるか、世界の外を見ることは出来ないがどうやらマスターくんが知ってる世界と同じらしい。あれはね、今で言うファンレターだったよ。私の出した論文に感動した、とそんなことを書いていた。私が彼の店にパンを買いに行く時はいつも変装していたからバレなかったんだね。私は貴重な人を亡くした、と思った。悲しさという類ではなかったよ。ここからどう生きようか、今までどう生きていたのかも分からなくなった」 「……それで、ここに来たの?」 ここはロンドン。特異点のかけらとして残った場所。モリアーティは突然マスターにロンドンに連れて行ってくれ、とお願いしてここに来た。何かと戦う必要があるのかと思いきやモリアーティは公園のベンチに座ると昔話を始めてしまったのだ。人を殺したことがあるんだ、という彼に藤丸は「ああ彼も悪人だった」と思った。悪役ではなく悪人。属性と関係なく犯罪者。 「見たかったんだ、彼が彼女と結婚したらどうしたか」 モリアーティは歳をとった姿に変わった。アラフィフという言葉はどこに消えたのか、瞼が落ちて三角形になった瞳、落ちてきた肌、白髪でぼろぼろの髪の毛、しわくちゃの手、実用的なステッキ。彼はゆっくりとコツコツと音をさせて歩き始めた。藤丸もその横でペースを合わせてゆっくりと歩いていく。 「あそこだ」 しゃがれた声だった。本当に歳をとってる、と驚きながら彼の視線の先を見た。そこにいたのは1人の中年男性だった。話を聞いていた時の、読んでいた時の印象とはまるで違う。ふくよかな体でパン屋を営んでいた。お店の中には快活な笑い声が聞こえてくる。だが、女性の声は聞こえてこなかった。 「………」 モリアーティはそれをじっと見つめていた。藤丸には分からないこともモリアーティには見えているのかもしれない。店主は使いの少年を店の外まで見送った。中に入ろうというその時彼はふと振り返った。モリアーティと横にいる藤丸を見つける。 「こんにちは」 「あ、えっと。こんにちは」 「いい天気ですね、お孫さんと散歩ですか」 「はい、そうなんです」 「お気をつけて」 彼は明るく笑って店の中に戻っていった。モリアーティはやはり何も言わなかった。 彼の店から離れて変装をといた。モリアーティは何も言わずに「戻ろうか」という。何と声をかければいいのか分からなかった。ただ、彼はもう二度と#名前2#・#名前1#の話をしないんだろうなと思った。 #名前2#は殺されると分かった時微笑んでいた。 「そうなるんじゃないかと思ってました」 「………」 「どうぞ殺してください」 頭を垂れて首を差し出した彼をみてモリアーティはその首に縄をかけた。そして顔を持ち上げるとその頬に噛み付いた。ひっ、と#名前2#の体が動く。歯でしっかりと跡がつくように。じんわりと血の味を感じたところで唇で舐めるように音を鳴らしてその頬を味わった。 「君は死んだことになる」 「……はあ」 「少し面倒なヤツらが君を狙っている。まあ、私のせいだけれど。君のパンを食べられなくなるのは困る。だから、身代わりの死体を用意した。話も作ってある」 「……はい」 「パンを渡すのは私だけでいいんだ」 モリアーティにとっては精一杯の言葉だった。#名前2#は分かっているのかいないのか、へらりと笑って頷いた。 「これからよろしくお願いします」