朝(あした)の人
男主・友情・本編前 ジェホン先生は植物にも話しかけるお人だ。植物それぞれに名前をつけているわけではないが、水をかける時に「どうですか? おいしいですか?」などと言っている。ただの水道水である。おれはわざとらしくミネラルウォーターのペットボトルのキャップを開いた。一口飲む。うまかった。 ジェホン先生は鼻歌を歌いながら水をあげている。同じミネラルウォーターのペットボトル。キャップには何かで穴を開けていて簡易なジョウロになっていた。その姿がどこか面白くてぱしゃり、と写真を撮ってしまった。 「え?」 「あ」 おれは素直に謝った。すみません、絵にしたくて。とっさに出てきた言葉は美術教師だからこそ使えそうなもので、英語教師の自分はどうやったって合わない言葉だった。だが、ジェホン先生はへらりと笑った。 「光栄です、そんなふうに思われて」 「……お恥ずかしい。許可もとらずに申し訳ありませんでした」 「大丈夫です。いや、ですが……そうですね。ぜひ、完成した暁にはわたしにも絵を見せていただきたいです」 ジェホン先生の言葉によって、おれは久々に絵筆をとることになった。あら、#名前2#先生、絵をお描きになられるんですか? 同じ英語担当のイウ先生が楽しそうに聞いてくる。 「まあ……昔の話ですが」 「絵を描いてもらうんです」 「ジェホン先生よかったですね~~」 こっちの気も知らないで二人はにこにこと絵の話をしていた。美大に通っていたわけでも、美術教師の資格もない。本当に、趣味で、少し書いていた。 「あまり面白いものじゃないですよ」 固くなった言葉によイウ先生はあ、という顔をしていた。やってしまったと思った。だが、ジェホン先生はにこにこと植物を見る時のような笑顔をしていた。 「ぼくは、絵を描いてもらうことが嬉しかったんです」 自慢させてもらいました、と言われておれは肩の力が抜けるのを感じた。 絵は、それなりに好きだった。だが、上手いと言っても才能があるわけではなかった。自分よりももっと上手い人間がいた。幼なじみでも、友人でもなかった。普段から会話するわけでもない。ただ、彼女の才能はずっと見ていた。彼女のような人が世界を生まれ変わらせるんだ、と思った。 紙の前に立ってみて写真を見比べる。真っ白な紙と綺麗なジェホン先生。おれは絵を描けるのだろうか? 気が乗らなかった。明日、ちゃんと謝ろう。そう思った。 学校に行くとジェホン先生はまた別の先生に絵を描いてもらうことを自慢していた。おれはさらに言い出せなくなり、絵を見せることが怖くなっていた。 授業をしながら考えていたが、おれは絵を描くのをやめて何年になる? 軽く十年はすぎていると思う。そんな俺が絵を? 馬鹿らしいと思った。 ふと、ジェホン先生のあの笑顔が思い浮かぶ。神は見ておられますよ、とほほ笑みかけるあの表情で「絵を描いてもらうことが嬉しかったんです」と言っていた。 黒板を見て、チョークを手に取った。プリントアウトした写真を9つのマス目に分けた。黒板に軽い線を引きながらゴリゴリと書いていく。チョークの粉が腕に、顔にかかってくる。指で擦り、足りない色を黒板とチョークの色でなんとか誤魔化していく。光源はここ。影はここ。黒板の緑を活かしてこう。チョークの先を削りながら生み出していたら、後ろで教室の扉が開かれたことに気が付かなかった。 「すごいですね、#名前2#先生」 振り向くと、イウ先生とジェホン先生がいた。恥ずかしい。こんな走り書きを見られてしまうだなんて。イウ先生は楽しそうに写真を撮っている。 「やめてくださいよ……。走り書きです」 「でもすごいですよ! ジェホン先生ってちゃんと分かります!」 「あはは……」 ジェホン先生は黙ったままだった。やはり期待はずれだっただろうか、と思ったがつかつかとこちらに近寄ってきた。 「あの、ありがとうございます!!」 「え?」 「わたしは、今までこんなふうに客観的に自分を見てもらえる喜びを知りませんでした。わたし、あんな感じですか?」 なんて直球な言葉だろう。おれは握られている手が恥ずかしくて仕方がない。イウ先生は横でにこにこと笑っていた。 「ジェホン先生は写真撮らなくていいんですか?」 「あ、忘れてました! 感極まるとなんにも考えられないって本当ですね……」 ジェホン先生の手はものすごい熱をもっていた。その熱がじわじわとおれに伝わり、光を見せてくる。彼の必死な顔と潤んでいた瞳はおれになにかの衝撃を与えた。 「ジェホン先生ってこわいっすね」 「えっ!? なんでですか!?」 「うーーん、なんでも……?」 「わ、わかりません……! わたし、学校ではみんなにとって良い先生でいるように頑張っているのに!」