星がもっと遠けりゃいいのに

 父の書斎に行くのが好きだった。何千とありそうな、わたしは今でも数えていないが、壁一面に据えられた本を見てわたしはその古めかしい匂いと共に冒険をするのが好きだった。本はいつも乱雑に置かれている。特に規則性があるわけではないようだった。学校の図書室のように決まった場所に置かれていない本たちを探すのが得意だった。  わたしは毎日この書斎に訪れるようにしている。どれ、と探してみたら今日もまたぽっかりと隙間が空いていた。何度も見ているわたしだからこそ気づける微妙な隙間である。彼が今日持って行ったのはこの本棚の中ではかなり薄い部類に入るものだった。むむむ、と考え込んだわたしは記憶のなかの本棚を思い浮かべる。そうして背表紙とタイトルを考えるのだ。  わたしと彼の関係は少し難しい。なんと言い表したらいいものか、と悩んでしまう。言うなれば、彼は盗人で、わたしはこの家の主人である。そしてただのホテルのマッサージ師である。彼は我が家にとても幼い頃から来ている。彼の職業はわたしはよく知らない。政府の中枢に食い込んでいるというのはホテルに来ている様子からなんとなく察している。一緒にいる人は外交官だったり、王室の警備担当だったり、はたまた噂の某国の元首相のときもあった。  彼はわたしが父から引き継いでこの家の主人になる前からよく来ている男である。言うなれば、わたしと彼は腐れ縁とでも言うべきか、彼との縁がなんだかんだと続いている。ホテルで出会ったときには絶対に話しかけないようにしている。そして家に来た彼を迎えて彼が何か話しかけるのを待っている。わたしは自分からマイクロフトに話しかけたりはしなかった。ホテルに来る人間に深入りしないのはわたしの信条だった。彼はマッサージを頼むことはなかった。代わりに、彼と一緒にいた人間はよくマッサージを頼んだ。どんな人間でも話してみると印象が違うということがある。真面目そうな男の腰元にハートと蛇の刺青があったり、はたまた美しい老婦人の体が服を剥ぎ取ると歳相応に老けたしわくちゃな姿になっているのを見たりする。それから会うことなんて分からない人間の背中はよく見るのに、わたしはマイクロフトの背中はまったく見たことがなかった。  わたしの父は誇るほどに本を持っていた。それを喜んだのは息子のわたしではなく、近所に住んでいるホームズ家の息子だった。マイクロフト・ホームズという男は自分の大切なものを独占するきらいがあり、彼には弟がいて彼もまた本をたくさん読む人間であるということはわたしが相当な歳を過ぎてから知ったことだった。彼はわたしのことを「main man」と歯切れのいい発音で呼ぶ。わたしは彼を「Brother」と呼ぶ。わたしたちはお互いに本名を呼ばないといういつのまにかできていた暗黙の了解をずっと守っていた。マイクロフトの弟くんとはじめて会ったときもわたしは彼のことを「兄弟」と呼びかけてしまった。弟くんからはたいそう怪訝そうな顔をされた。弟くんの助手というお医者さまは「ああ、レインマンですか。いいですよね、あれ」と笑顔で言ってくれた。ちぐはぐとした二人であったが、そんな関係性がちょうどいいのだろうと思った。弟くんの噂は何度か聞いたことはあったが顔はあまり似てないな、と思った。性格は程よく似ていた。  推理力が高く、まわりの人間をバレないように見下し、自分の意のままに英国を動かす野心を持ったマイクロフトは我が家にくる度に「自分がいた痕跡」を残して、代わりに本を一冊抜き出していく。彼の力を以てすればそれらの本は容易に手に入れられる本たちである。なぜならそれらの本はわたしが読みたいと思ったら気軽に本屋で買ってまた本棚に埋めることができるくらいには普遍的なものなのである。しかし彼は抜き取る。わたしに何も言わないで。そしてわたしはそれを確認したあと、また何か本を補充して隙間を埋める。わたしは彼に持っていかれた本をもう一度購入し直すということはしたことがなかった。  彼は我が家で自分の家のようにくつろいで、靴の泥を落とし、髪の毛も落とし、たまに食事なんかもして家を出て行く。そして家を出るときに本を一冊、抜き取っていく。これもまた、彼とわたしとの暗黙の了解だった。  父はこの遊びを知っていたのかどうか、今となってはもうわからない。父もいない今はわたしとマイクロフトの秘密の遊びである。最初に抜き取られた本はジョナサン・スウィフトの「Gulliver's Travels」だった。はじめてそれに気づいたときわたしは泣きそうになりながら家で本を探した。わたしのお気に入りの本だったのである。あれは何歳の時だったのか、まったく覚えていないが自分の本が見つからず父にも聞きに行って、それでも見つからず翌日に来たマイクロフト・ホームズに「ぼくはジョナサン・スウィフトの旅行はあまり好きではないかもしれないようだ」と言われてすべてを察した。わたしは彼に何も言わず、彼もそれ以上何も言わなかった。わたしたちは共犯者だった。わたしは彼によって開けられた隙間をそっと他の本で消えるように丁寧に消した。そして後日、適当に本屋で手に取った本を入れて置いた。父は翌日、その本をわたしの手が届かないほどの高い位置に置き直していたから何か仕掛けられているのは気付いていたと思う。  彼はわたしのベッドで本を読んで、においと自分がいた痕跡を残していく。わたしが朝、起きた後にがんばったはずのベッドメイキングは崩されてしまっていた。マッサージしようか、と声をかけたことはない。しかし、マイクロフトは時たまわたしにハンドクリームを持ってきた。君の手は有用だから、と適当な言葉と共に投げられたそれは大切に使われている。マイクロフトはその高慢さをひた隠してわたしが欲しいと思ったときに丁度よくハンドクリームを持ってくる。ラッピングされたそれを見る度にわたしはどこか心がくすぐられるのだった。  ひらめいた。今日、持って行かれたのはカズオ・イシグロの「Never Let Me Go」だと思う。わたしは今日、新しく買った本を入れるように本の配置を少しいじった。わたしは本棚の配置にそこまでこだわる人間ではなかったので本を本棚の限られた場所にぴったりと当てはまるように動かすことも好きだった。多分、父も同じだろうと思う。  ディーリア・オーウェンズの「Where the crawdads Sing」はカズオ・イシグロのあいたスペースには厚みがありすぎた。わたしは本の配置を動かし、きちんと収まるようにしまった。マイクロフトはこの本を持って行くだろうか、と考える。持って行かないだろうな、と思った。彼にはこの本は「つまらない」だろう。  マイクロフトはいつだってわたしが気に入っている本を持って行ってしまう。わたしが気に入っている、という素振りを見せなくとも必ず見極めてしまうのだった。わたしは彼に取られる前にちゃんと本を読まなければ、と思ったがいつしかマイクロフトはわたしが読んだ本しか取らないということにも気付いていた。毎日来る訳でもない男にそんなに心を惑わされなくてもよい、と気づいてからはのんびりと本を読むようになった。  マイクロフトはミステリーは好まないと言うが、この本棚からはなんの文句も言わずに取っていく。本の感想を言うことはほとんどない。最初のスウィフトのとき、わたしにヒントを与えたあのときくらいである。彼は本を読んでいるのだろうか、とたまに不思議になる。わたしと彼とはあまりにも距離感が近すぎて、どうしてもそれが気になってしまった。しかし、それを尋ねることはなかった。マイクロフトなら読んでても読んでなくても同じだろうと思った。  わたしはある日、マイクロフトに「本棚をね、増やそうかと思って」と相談した。マイクロフトはいつもの品のいい笑顔で「いいじゃないか」と笑った。彼のその表情はアッパークラスの怪物たちと戦うためであることは知っていたがわたしにまで向けられるとは思わなかった。 「本棚のデザインをどうしようか、相談したかった」 「私と?」 「もちろん」  そんな面倒なこと、と言われてもおかしくなかったと思うがマイクロフトは「仕方ない」とわたしの手からカタログを奪った。彼には似合わないIKEAのそれは彼の持ち物の中でいちばん浮いた存在だった。ホテルで見たどんな人物たちよりもいちばん似合わない。 「君の家にはIKEAは合わないと思うが」 「知ってるよ」  ただ君に持たせたかっただけ、と言うとマイクロフトは眉をひそめて「君は相変わらずよく分からない」と呟いた。わたしは笑ってコーヒーを飲み、読ませたかったカタログを持ち出した。その日もまた、本は取られた。わたしが読み終わったばかりのSF短編集だった。