くちべにの色はおぼているの
妹が彼氏を連れてくるとスマホに連絡が入っていた。彼氏。メールパートナー。妹に。喜ばしい。 家に連れてくるほどの仲というと、おれが心配していたよりも、妹ははやく結婚するのかもしれないと思った。なにせ両親は妹の方に孫の期待を寄せていた。おれの方は結婚して数年で離婚することになったからだ。それに女の方だと孫を産んだときに自分たちに有利だと思っているところもある。今時そんな価値観はどうかと思うのだが、両親は自分たちが遅れているなんて思うこともなかった。悪い人たちではないと思うけれど、とにかく害意がある。 妹は客観的に言うと男の人はあまり付き合いたいと思わないかもしれないタイプである。自信がなくておどおどとしがちだ。可愛く見えることもあるが、やぼったい髪の毛と服装とでその可愛さが見えにくくなっていた。結婚したいという言葉も聞いていなかったし、どうするかは妹の自由だろうと関与せずにいたが彼氏がいると聞いて少し安心したのもまた事実だった。 実家に集まれと言われて仕事終わりに寄ると言えば母は「休んででも来い」という。うちの職場はそう気軽に休めない、と愚痴をいうと妹は「きっとわたしのことが心配なのよ」というのだった。騙されているんじゃないか、と疑っているのだ。わが母親ながらあさましいと思う。騙されたならそれまでだ、それでも身内なのだから付き合っていくしかない。そうテクストを送ると妹から「なんで騙されてる前提なのよ」とお叱りの返事をもらった。 家に帰るのはほんとうに久々だった。いつもは行事あとの静まり返った家に帰るのだが、今日にかぎっては電気もついて笑い声も聞こえて、とやけに楽しそうな雰囲気だった。チャイムを鳴らして中に入ると軽快なポップスが流れてきていた。父も母もそんな趣味はしていなかったはずだ。妹、もしくは妹の彼氏の趣味なのだろうか。不思議に思いながらもリビングへ進むと声がかけられた。なんだ、出てきてくれればよかったのに。気が利かない妹でごめんね。いつもと少し違う会話に何かがちがう、と思った。 「兄さん、この人が、いま付き合ってる彼氏。ジムっていうの」 「はじめまして、ミスター」 聞き覚えのある声に後ろを振り向くのがとても怖かった。妹の泣く声が聞こえてくる。 「ねえ、どうして振り向いてくれないのさ」妹の彼氏が責めるように声をかける。お前のせいだよ。 「はじめまして、ジム。#名前2#と言います、よろしく」 「どうも」 振り向いた瞬間、どっと背中に冷や汗が流れた。異様な光景だった。首輪をつけられている女とリードを持っている男。今にも泣きくずれそうな女。近づいてそのリードを捨てろと言いたい。だが、一歩すすんだらジム……が、何をするのか想像できなかった。 手汗をぬぐうようにして彼は俺に手を伸ばした。横に立っている妹の顔ははれ上がっていて誰かに殴られたのだとすぐに察した。妹に騙されているのかもしれないなんて声をかけるべきじゃなかった。フラグ回収とジャパニーズは言っていた。嫌な話だ、ほんとうに騙されいてるなんて。 「会いたかったよ、#名前2#。君は? 僕に会いたかった?」 「……どうしてここがわかったんだ」 「質問に質問で返すんじゃない! あ、ああ、いや。うん……君のことだから、特に意味はないだろうな。答えてあげるよ。調べたんだ。おわり。言っただろう、探偵のまねごとは得意なんだ」 初めて会ったあの日のように、僕に笑いかけてくれないの? ジムに笑いかけたところで妹が助かるとも思えないが、とにかく笑うしかなかった。ぎこちない笑みになっていたがジムはそれで満足したらしい。よかった、僕のこと忘れてなかったんだね。もちろんだ、と頷いた。今の今まで忘れていたのは確かだけれど。 「会いたかった、けど。……もっとロマンティックな再会だったらよかった」 「そう? ロマンティックではないけど、これも十分ドラマティックだと思うよ」 あの時と同じ会話をしている。ジムは妹を突き飛ばすとおれの方に近づいてきた。妹が泣いている。駆け付けたいのに、彼女にもおれにも赤いポインタがうつっていた。動けない。もう逃げられないのだとジムが笑っている。 「ゲームオーバーだね、#名前2#」 この調子だと、おれの父と母も殺されているんだろうかと遠くのことのように思った。 * 彼と初めて会ったのは何年も前のこと。妻の浮気が発覚して、やけになって適当にやっていたナイトクラブに足を運んだ。彼女がとても可愛い顔をしているのはわかる。狙いたくなる気持ちもわかる。だが、浮気相手はおせじにもハンサムではなかった。そんなナードみたいな男のどこがいいんだか、と叫びたかったが自分だってそこまでハンサムでもない。おもしろい顔はしていると思うが。とにかく、嫉妬と苦しさとが胸にすくって酒でも飲まないとやっていられないと思ったのだ。 カウンター席の端に座らせてもらった。バーテンダーは自分よりもずっと若そうな青年らしき人でバイトだろうなと思う。今は頼まれているものがないようで、ぼんやりと群れ動く人の波を眺めていた。声をかけると「どうしますか」とやはりぼんやりした声で質問がくる。この若いのに、と思ったところで自分のそういう価値観が彼女に合わなかったのかもしれないと思った。 バカルディひとつ。声がかすれていた。青年は頷いてすぐさま取りかかってくれた。初めての店で、もうここには二度と来ることもないだろう。そう思うとどこか気楽でもあった。ここで醜態を見せても、人生で一回しか交わらない人間たちになんと思われようとどうもしないだろうと思った。 飲みながら浮気相手と妻のことを頭の中でなじるが、おれはどうにも怒り続けることができなくて。だんだんと「おれの前に二度と現れないなら好きにしろ」という気持ちになってくる。 「ねえ、そこの人。ずっと飲んでるけど死にたいの?」 「……だれだ、きみ」 「質問に質問で返すなよ、僕のが先だ」 くくくっと笑った彼はグラスのふちをなめながら「ひとり?」と聞いてくる。 連れがいる、と適当に嘘をついてもよかったがなぜか「いない」と答えてしまった。彼はべつに若い男でもない。三十は超えているだろうが、若作りのためか肌からはクリームのにおいがしていた。化粧をする男を見たのは初めてだった。肌にはりついたようなTシャツにジーパン、質のよさそうな革靴だけは彼のつけている物で量産品点で買ったものじゃないだろうなと思わせた。 「そう、よかった」 「おい、男と寝る趣味はないんだが」 「別にセックスなんて頼んでないけど」 「それじゃあつかんでくるこの手はなに」 「うーん、これはね……そうだな、君の腕時計がほしいっていう意味とかでどう?」 どう、と言われてもおれが決めることじゃない。腕を振り払うと「ちぇ」と体は距離をもったがまだ席に座っている。 「別の席に行かなくていいのか」 「あなたの横が居心地がいいから」 「そんなこと初めて言われた」 「僕もはじめて言ったよ」 「うそつき、ロマンスのかけらもないな……。今時そんな言葉でついてく男はいるか?」 「ロマンティックじゃなくてもドラマティックさはあるだろ」 「そうは思えない」 「ひどいなあ」 男はいろいろと言いながらもおれの隣を離れなかった。バーテンダーはおれたちの席から離れて別の客の注文を聞いて笑っている。可愛い女の子は彼女かもしれない。 「ああいうのが好み?」 「年の差を考えてくれ……」 だよね、あんなのが好きって言われたら僕もさすがに警察に突き出すよ。男は笑いながらつまみのピーナッツを口に放り込んだ。 「ねえ、本当に僕のこと放っておくつもり?」 「残念ながらな」 「その結婚指輪はもう使わないつもりなんじゃないの?」 は、と思わず声がもれた。指輪のした手を隠すと「もう遅いよ~」と楽しそうに笑われた。 「ずっとつけてただろう指輪、最近外したんでしょ? 指についてる跡と指輪の位置がちょっとズレてるの見えてるよ。そんなに跡がつくのに簡単に外れますってことはないだろうし、一度外したんでしょ? いやなことがあってさあ。で、連れがいないっていうのも嘘じゃないだろうし、ため息ついてうろんな目つきであのバーテンダー見てたらそうかなって思っただけ」 「そうかな、ってつまり?」 「離婚寸前の旦那さま、かな」 探偵みたいだな、とつぶやくと彼は「でしょ」とキスでもおくるように微笑んだ。 ふたりでクラブを出て、どこに行くとも言わないまま歩き続けた。離婚寸前、なんてところまでは決めていない。ただ、浮気相手と妻を一生見ないでいるにはその手段が一番有効だろうという気持ちはあった。連れ立っている男はモリアーティと名乗った。 「ファーストネームは?」 「えーー、聞きたいのー? 僕の誘いを断ったくせに」 「……じゃあ聞かない」 「うそうそ、ジェームズ。父親と同じ名前で、この名前は嫌いなんだ」 いまどき、父親と同じ名前だなんて。だせえな、と心の中でつぶやいたのにモリアーティには聞こえていたのか見透かしたのか「ダサいでしょ」と笑う。 「もし、浮気相手とかをこらしめるなら僕協力するよ? そしたら#名前2#さん、僕とファックしやすいもんね~」 「ファックっていうなよ……」 「お上品だねえ、あんたって」 そんな会話をしていたのに結局なぜかホテルに入ってしまった。ファックはしていない、が酔っ払った男二人が何をするかと考えても頭が痛い話である。ジェームズ・モリアーティ。もう二度と会うつもりはなかった。朝起きて、酒のせいで痛む頭を抱えながら安ホテルから出てきた。彼に言われたとおり、結局離婚することになったが「離婚にいたるまでの騒動」ということで、頭から綺麗に消えるように塗りつぶしていたはずなのに。妹の彼氏としてモリアーティはまた現れた。 「僕、#名前2#のこと本当に狙ってたのにさあ。結局ホテルでも手を出してくれなかったし、朝は勝手にいなくなってるし。いなくなっててもいいよって周りに頼んでいたのは僕だけどね」 「……それで、おれを探した?」 妹につけられていたものとは別の首輪がおれの首についている。映画でみる爆弾のようなタイマーもついている。とにかく怖かったが我慢するしかない。モリアーティは自分の乗ってきたメルセデスにおれを乗せるとどこかに電話をかけた。銃声が響き、おれの生家に生きている人はだれもいなくなってしまった。 「#名前2#が僕から離れるから死んだんだ、あの子に恨まれるね」 「……だましたお前の方を恨むんじゃないか」 もう死ぬかもしれない、と思ったら軽口がでてきた。ヤケになるとどうしても自分のことを気楽に扱ってしまっていけない。モリアーティはにこにこと笑みを深くさせた。 「#名前2#のそういう会話が聞きたかったんだ、ねえ、#名前2#。今度こそ僕とホテルに行こうよ、あんなクソビッチのことは忘れてさ」 「……そのクソビッチは今は生きてるのか?」 「なんでそんなこと聞くの?」 「……お前のことだから、殺しててもおかしくないと思っただけ」 「ああ、そのこと。大丈夫、僕、仕事にない殺しはしない主義だから」 「じゃあ、なんでおれの家族は殺した?」 おれの質問にモリアーティはぐるりと振り向いた。 「#名前2#がひとりになりたいって言ってたから」 おれのせいかよ。くそ。また何か言えばおれは殺されるのだろうか。モリアーティは歌まで歌い始めている。もうどうにでもなればいいんだ、こんな人生。 * 僕のあげた首輪はやっぱり#名前2#には似合わない。本当はこんなのつけなくてもいいくらいに仲良くなりたいけど、#名前2#はきっとそんな隙を見せないだろうと思う。真人間のフリをしてるくせに自分の性根の醜さに気づいてない人間たちはたくさん見てきたけど、わざわざ醜い人間のフリをするのは初めて見た。#名前2#は究極的にいえば、物をもっていたいとかいう欲がない。自分に害がなければ何もかもだどうでもいいとさえ言い出すと思う。 「僕は#名前2#の一番になりたい、それだけだから」 「おれの一番は飯だぞ」 「ご飯よりも僕とのセックスを優先させるよってこと」 「……そりゃあ先の長い話だな」 だから首輪をつけてるって#名前2#は気づいてないのかな。#名前2#そういうの鈍そうだからなあ。適当に笑ってうなずいたらため息をつかれた。逃げる気力はやっぱりないみたいだ。