昔話は思い出されることはないスケルツォ

 #名前1#という男についてはジョンもよく知らなかったのだ。妻の兄、それが彼に持っていたイメージだった。念の為調べてみたが彼には犯罪歴もなく、レストランのシェフという真っ当な仕事についていた。  ヴィゴたちを殺し家に帰ってきたあと数日が経って#名前1#はジョンの家にやってきた。 「あのお、ジョンですよね? 包帯ぐるぐるですけど」 「……ああ」 「すいませんね、俺、人の顔を覚えるのが苦手で」  #名前1#はがりがりと頭をかくとそのままドアの前に突っ立っていた。敵かとも思ったが彼は銃なども持っていないようだった。姿勢の悪いまま立ち仕事してるのだろう、筋肉はよれていた。30秒もかけずにこの男は殺せる。そう思ったが妻のヘレンのことを思い返すと彼を殺すことは出来なかった。妻は結婚式でジョンにこう言ったのだ。 「兄さんは不思議な人よ。でも悪い人じゃあない。いい人なの、善人ってやつね」 「……ああ」 「あの人が私たちの家に来たなら迎えてあげて、ジョン。私がいない時でもよ、お願い」 「……ああ、分かったよ」  目を閉じて深呼吸した。ふと視線が向けられる。そこには悲しみだとか哀れみだとかそういうのはない。ジョンを通した向こう側、拾った犬に向けられていた。 「どうぞ、いっぱい飲んでいく?」 「…ん、ああ。そうだなあ、じゃあお願いするよ」 「水? 酒?」 「水で頼む」  コップに水を注ぐ。白くて使い勝手のわからないキッチンは妻のために拵えたのだ。ジョンは料理についてはよく知らない。  ほら、と渡された水を受け取り#名前1#はぐびぐびと飲み干した。 「ここには車で?」 「……? いや、自転車で」 「その格好で? 大変だっただろう」  #名前1#は自分の姿を確認した。ジーパンとよく分からないフランス語が記載されたTシャツだ。ジョンはTシャツを指さして「そのシャツ。お前をファックしてやるって書いてあるぞ」と言う。 「ひひ、ウケる」  #名前1#は笑ってコップを差し出した。もう一杯?と聞けば頷く。悪いやつじゃない。だが妻の言うように善人であるかどうかは分からなかった。 「この一杯をもらったら出ていくよ、ありがとう」  男は笑っていた。彼のポケットにはいつの間にか鍵が見えている。彼のイニシャルではない。Hというガラス飾りのそれは妻にあてたものだろうか。 「なあ、あそこに見えている犬は君のか?」 「……ああ」 「そうか、いいね。犬はいい。素敵な贈り物だ」 「なあ、きみは!」  思わず掴んだ手にハッとした。彼の手はずっとハンドルを握っていたせいで皮膚がこすれて硬くなっていた。腕にはうっすらと筋肉がついている。 「……君はここまで自転車で?」 「? ああ。そうだよ、なあ君の犬の名前は?」 「……あの子に名前はつけてない」 「そうなのか、残念だな」  #名前1#はコップを返すとそのまま扉の方に歩いていってしまう。彼には敵意などなかった。おそらくただ妹のいない家を見に来たのだ。彼は自転車をこいできた。金も何もかもどこかに置いてきたのか取られたのか。  彼はふと立ち止まった。玄関に取り付けた犬用の扉を見て彼はしゃがみこみキィキィと開けたり閉じたりしていた。 「犬を持ってると幸せな気持ちになれる」 「え? 何?」 「幸せな気持ちになれるとヘレンに言われたんだ。何かに使えるとかそういう用途じゃない。だから俺はヘレンに犬を贈ったしあの子も君に犬を贈った。優しい子だったろう?」  幸せ。それはヘレンとの生活だった。彼女が亡くなりデイジーがやってきてまた幸せを感じ始めた。それは確かなのだ。俺には愛する気持ちがあった。それなのにアイツらがヘレンの最後の贈り物を殺した。車を売らなかっただけで。たった、それだけのことで。 「ジョン、水をありがとう。俺はもう行くよ」 「……どうせなら食事でもしてかないか、家に1人なんだ」 「お前の元には犬がいるだろう? 俺にはこいつがある」  ちゃりん、と鍵が彼の手の中にあった。彼はドアを開けて出ていってしまった。扉に隠れていた犬が出てくる。鳴き声はいつもより情けない。抱き上げると優しくて温かい気持ちになった。  自転車をこいでホテルに戻った。最近引き抜かれたこのホテルには必ず守らなければならないルールがある。ホテルにいる人達について話を聞かないこと、殺されても文句は言わないこと。それが守れるならここで働いてもいい、ということらしいが俺はここに引き抜かれた身分だ。死んだら家族になにか渡されるらしいのだが親はもう死にかけていて老人ホームにいる。妹も亡くなってしまい、友人も少ない俺はジョンのことを思い返した。彼に会いに行き、彼の人となりを見つめた。彼はいい人だった。彼になら金を渡しても問題ない。俺はホテルに言って死んだあとのお金を彼の口座に行くように手配した。紙を渡すと相手は変な顔をした。 「なに? 何かあった?」 「……あなた、これ本気?」 「ああ。妹の旦那なんだ」  #名前1#が家に訪れた一週間後、ジョンの口座に大金とまではいかないもののまとまった金が入っていた。コンチネンタルホテルからの入金にジョンは首をかしげた。 「何だ、この金は」  #名前1#が亡くなったことを知らせるよりも随分と早い入金だった。