わたしを連れて行ってケルベロス

 その作家はホテルのオーナーに質問をしたらしい。  ムッシュ・グスタヴにも何かミスすることはおありでしたか?  オーナー、ムスタファは笑って答えた。  グスタブは1度だけ、たった1度だけ自分のためにホテルに人を泊めたそうだよ、と。  グランドブダペストホテルは格調高く素晴らしく快適なホテルだった。なぜそんなに快適なのかというとホテルの優秀なコンシェルジュのおかげだった。ムスタファはそのコンシェルジュの弟子だった。 「見なさいゼロ」 「はい」 「彼女たちは裕福だが……年老いて、不安を抱えていて、そのくせ見栄だけは大きく、軽薄で、金髪だ」 「……はい」  ゼロにはグスタヴのその言葉に頷いていいものか迷った。ゼロにとってはホテルに来る女たちも、そうではない女たちも同じようなものだと思った。いや、アガサは違う。彼女だけは、違う。 「ああ、グスタヴ。君はまだそんなことを言ってるのか」  鷹揚な声が聞こえた。いつからそこに居たのだろう。彼は横に荷物を置いて黒いマフラーを巻いて風に髪の毛を遊ばせていた。冷たさで赤くさせた鼻を見せて「やあ」と笑いかけていた。 「#名前2#!」 「昔のぶんと、合わせて金が払えるようになったんだ」  グスタヴが名前を叫び愛おしそうに手を伸ばす姿を初めて見た。コンシェルジュが女性に抱きつかれることはあってもムスタヴはいつも手で制して紳士淑女のように片手を持ち上げていたのに。その時ばかりは階段を駆け下りて#名前2#と呼ばれたその人を抱きしめたのだった。周りの人も驚いていたしゼロも驚いていた。 「金なんていいと言っただろう! なんで聞かないんだ、バカが!」 「グスタヴにそう言われるのが辛いんだ」 「な、にを……」 「俺だって金を稼げると見せたかったんだ。コンシェルジュ様に見せてやりたかったんだよ」  グスタヴは泣きながら抱きしめた。そうして「ようこそ、グランドブダペストホテルへ」と高らかに笑った。あのムッシュ・グスタヴのセリフとは思えなかった。  ロビーボーイのゼロは知らなかったがその#名前2#という人はこのグランドブダペストホテルの中では有名らしかった。彼はグスタヴさんが初めて「コイツを泊まらせて欲しい」とお願いした人であり、お金を立て替えた人らしかった。コンシェルジュとしてグスタヴさんは彼にどんなこともしてあげた。らしい。僕は知らないけど。 「あの人ともセックスしたんでしょうか」 「しっ。ロビーでそんなことを口にするんじゃない」 「すみません」 「アイツはただそこに居ただけだ」  グスタヴさんがそう言うのだからきっとそうなのだろう。僕は何も言わなかった。#名前2#さんという人は大金を支払って1泊だけしていった。たった1泊。支払ったお金は3泊分。初めて泊まった時、この人は何を思ったんだろう。 「やあ、ロビーボーイくん」 「おはようございます」 「荷物を運ぶのを手伝ってもらってもいいかな」 「はい、もちろん。いえ、でも、……」 「ん? 何かあったのか?」 「グスタヴさんが貴方を待つんじゃないかと」 「ああ、そうかもしれない。…そうかもしれないねえ」  #名前2#さんは上の階を見てうんうん、と頷いた。僕を見ると「君の名前は?」と笑いかけた。 「……。あの、ロビーボーイに名前って必要ですか」 「ロビーボーイにはいらない、とアイツは言うのか? 俺は話し相手には名前が欲しい」 「ああ、そういうこと。なら答えます。ゼロです」 「ゼロ……ゼロ、面白い名前だ。俺は#名前2#」 「知ってます」 「よかった。ロビーの椅子に座って話したい、そういう仕事を命じる」 「仕事ならグスタヴさんも許してくれそう」 「よかった」  こんな朝早くから動いている人は滅多に居ない。僕は#名前2#さんの荷物を下に持ってきて一緒にソファーに座った。彼は品のいいシャツとコートを着ていたがどこか浮いたような感じがした。 「グスタヴとは腐れ縁なんだ」 「そうなんですか?」  僕にはそうは見えなかった。 「昔、俺があいつを自分の家に泊めた。その恩返しなのか俺が家もなく無一文になった時にあいつはホテルを紹介してくれたんだ」 「なるほど」 「いつまでも居ればいいと言われた。俺は断った。夜を2回越して俺は出ていった。ホテルにいた男に自分を売り込んだんだ。お子さんの娘にピッタリの家庭教師ですって」 「本当にそれで家庭教師に?」 「いいや。させられたのは庭師だった。でも結局俺は家庭教師になって奥さんまで紹介してもらった。今は帰る家庭がある」  きらりとそこで彼の指輪をようやく見た。僕はこの人はグスタヴさんともう一度話したいんじゃないかと思った。もう一度話し合って、2人でまた笑い合う機会を待ってるんじゃないかと。#名前2#さんはひとしきり自分の家の話をしたら「帰るよ」とあっさりとカギをロビーに返してしまった。僕はそれを受け取った。  玄関を出て風が強く吹いている中で用意していたタクシーに#名前2#さんの荷物を入れる。ばたん、と上の階の窓が開いた。 「ではお元気で! #名前2#・#名前1#!」  僕はそのセリフを知らなかった。だって読み書きを覚えたくらいだ。小説なんて気にしたことがない。グスタヴさんを見て#名前2#さんは泣いていた。笑っていた。手を振り返し車に乗った。グスタヴさんがホテルで自分本位に動いているのを見たのは初めてだった。  それで、終わりですか?と私が聞くとムスタファさんは笑いながら「そうなんだよ」と言った。 「まるでサリンジャーのように、彼は消えてしまったんだ」 「家庭が、あるせいかも」 「いえね、グスタヴさんはずっと彼に手紙を送っていたらしいんです」 「そうなんですか?」 「その手紙が送られてきたと教える度に彼は不安を抱えた見栄っ張りで軽薄な男ではなくなった。私が知らないただのグスタヴになった」 「ただのグスタヴ?」  ムスタファさんは笑って言った。 「恋をした人ってことさ!」  ばたん! 本を閉じる。若き作家は#名前2#さんについて何か書いていたがそこまでは読めなかった。私はどくどくと早まる心臓を押さえて深呼吸した。むかし、むかしの話なのに私はどうしても我慢が出来なかった。その先を、私は一生読むことはないだろう。裏表紙の年老いた作家が私を怒っている気がした。


 #名前2#は母の執事の男だった。母が彼とまぐわう度にぐちゃぐちゃとした音と母の喘ぎ声との中に隠れた#名前2#の小さな息遣いを聞いていた。#名前2#が男として母を抱いていることが幼いながらに「気持ちいいこと」として認識していた。  まだ私が自分のペニスを勃たせることも知らなかった時、私は#名前2#を自分の執事へと変えた。母はグランドブダペストホテルの男に心を奪われたため、#名前2#は用済みだった。  #名前2#はセックスばかりが得意なのかと思いきや、彼は執事としても有能な男だった。その優秀さゆえに私は#名前2#にどうやって抱いてもらえばいいのか分からなかった。  ある夜、私は自分の体がどんなものかも分からないまま、幼い言葉で#名前2#にお願いをした。 「私とファックしてくれ」 「……坊ちゃん」 「坊ちゃんはやめろ! 私はドミトリーだ」 「あ、あー、……。ドミトリー様」  #名前2#はしゃがみこみ私と視線を合わせた。 「マダムと俺のやつを……」 「見ていた」  ぉああーーん、と#名前2#は顔を隠してしまった。私は#名前2#のそんな表情を見られるとは思わなくて隠すな、と命令した。#名前2#はゆっくりと顔を見せた。 「……#名前2#のことが好きなんだ」 「その気持ちは、ホンモノでは無いと思いますよ」 「ふんっ。この気持ちが人を好きじゃないなんてお前に言いきれるのか」  そりゃあ無理ですけど、本気じゃないでしょうと#名前2#は言う。私の心をちゃんと見ないくせに変なことを言う、と思った。  私が心も身体も成長して母はどんどんホテルのコンシェルジュに心頭していく。私は母に仕える使用人たちを少しずつ減らし始めた。母は何も言わなかった。私の行動に感謝でもしているのか、家にいるよりもホテルに滞在する方が多くなっていった。  #名前2#は私のそれに何も言わなかった。 「おい、#名前2#」 「ここにおります」  バスルームの掃除をしていた#名前2#に近寄ると困惑したような顔で私を見つめた。私はもう女を知っている。男も知っている。唯一抱かれ方だけ知らない。それだけは#名前2#に任せたかった。 「私のこの気持ちは今でも嘘だと思うのか」  扉によりかかり茶化したように言うと#名前2#はゆっくりと振り向いた。 「本当にいいんですか」 「いいと、私が言っている」  #名前2#が私に近寄ってきた。歳をとったくせに今も相変わらず私の心を奪う男だった。お気に入りのシャツのボタンが外されていく。黒に染ったコーディネートは#名前2#が黒が好きだと言ったからだ。  結論から言うと、#名前2#と自分の体力の差をなめていた。アイツの方が何倍も上だった。私は#名前2#を満足にイカせることもできないまま落ちてしまった。  起きると体は綺麗になっていてさらにはベッドさえも綺麗になっていた。 「………#名前2#!!」 「はい、ここに」  執務室に繋がる部屋から出てきたのは急いで準備したらしい#名前2#だった。タイはよれていて髪の毛もいつもよりフワフワとしている。 「こっちに来い」  私が呼びつけると#名前2#はつかつかと近寄ってきた。裸のまま私は「ん、」と腕を差し出す。#名前2#は顔を赤くさせて「着替えますか、シャワーを浴びますか?」と聞いてきた。 「まずはお前と会話がしたい。共寝の記憶が全くないのは俺も嫌だからな」  私の言葉に#名前2#はちょっとだけ面倒くさそうな顔をした。母にはついぞ向けることのなかった視線だ。どうやら私は#名前2#の色んな表情を見るのが好きらしい。私の言葉で、行動で#名前2#が変わるのが面白かった。 「坊ちゃんはワガママですね」 「ドミトリーだ」 「……ドミトリー様」  昔に交わしたセリフと同じもの。私が珍しく大声で笑うので屋敷は驚いたらしい。#名前2#は苦々しい顔で私のことを抱き寄せた。