素敵な海ね、溺れちゃいたい
「おじさんは本が好き?」 そう聞かれてわたしは青年がわたしに話しかけてるのだ、と気付くのに一瞬遅れた。図書室にいるのは彼とわたしだけ。席は付かず離れずの、微妙なところ。思わず彼を見たわたしに青年はもう一度同じセリフを繰り返した。窓の外はしとしとと雨が降っていたので「雨のせいで聞き取れなかったわけじゃないんだ」と返した。青年は笑ったままわたしを見ている。返事を待っているのだ。 「そうだね、人並みには」 「あのね、おじさん。テールオブゲンジの中でも『ウキフネ』を読む人は人並みって言わないよ」 わたしの本のタイトルはしっかりと見られていたらしい。シリーズものは同じ表紙なのによく分かったね、と言うともう背表紙たちの傷で分かるんだよと彼が言う。それはすごい、と目を見開いたわたしを見て#名前2#はくくくっと笑った。 「嘘だよ、おじさん。シリーズものの表紙って分かったからさっきトイレに行くついでに」 彼は携帯を取り出して見せるように揺らした。 「本にGPSがつけられる時代か」 「それだけじゃなく背表紙の写真も載せてあるよ、この図書館のホームページのモットーはどんな人も使いやすく、だから」 けらけら笑った#名前2#・#名前1#は本を閉じると「じゃあさ、日本は好き?」と聞いてくる。今回のターゲットは人懐こい性格というのは聞いていない。むしろ教室では静かで大人しく、目立たないタイプである。 「さあ、行ったことはないから」 「イメージだけでもいいけど」 「食事はしてみたいと思うね」 「そう、行ったらぜひラーメンを食べてね」 「ラーメン?」 「中国のものもおいしいけど、日本だって悪くないよ」 「興味深いね」 フィンチ、と耳にあの低い声が入ってきた。接触しすぎとでも言うのだろうか。いつものリース君だってこんな風に話してると思うのだが。 「おじさんは何でおれが話しかけたのか聞かないんだね」と青年が笑う。想像はついているが彼の条件に合うのはわたしではないように思えたので黙っていたのに。 「十分間、同じテーブルに座ってて、この席におれとその人以外にいない時にはね、勇気をだして話しかけるんだ」 「それに答えてくれる人はいる?」 「多くの人はね、答えてくれる。読んでる本は面白い? とか聞いてみるとさ、色んな答えがあるよ。課題があるとか、本が買えないとか、新刊を楽しみにしてたんだから邪魔するなとか。ああ、あとね、たまに何でおれがそんなことをするのか言い当てる人もいるよ」 「まあわたしも想像はできるけど」「本当に? 当てられる?」 青年はきらきらした目でわたしを見ていた。リース君にもこの輝くものが届いているだろうか。こんな目はまだ赤ん坊だった彼女ぐらいがするものだと思っていた。 「キース・デジドーヒェンの僕らはここにいない」 「わあ、大正解」 #名前2#は自分の持っていた本のブックカバーを取り外した。デジドーヒェンの最新作、セミの死骸と右の頬だった。5日ほど前に出た新作だ。にこにこと「デジドーヒェンは好き?」と聞いてくる。 「あまり好みではなかったな」 「そっか、それは残念」 残念と言いながらも#名前2#は笑っていた。リース君が「本当にこいつがその作家なのか?」と聞いてくる。わたしはそれには答えず、青年に話しかけた。君はデジドーヒェンは好き? #名前2#は笑みを深くした。 「大嫌いだよ、ほんとうに」 「今回のターゲットにはわたしが会いに行こうと思う」 そう言った時のリース君の顔はその美しい顔をくしゃりと歪ませて「未成年に手を出すのは犯罪だぞ」と言ってのけた。 「おい、まさかわたしが色恋のために彼に会うとでも?」 「そうじゃなかったらなんで俺を前線から外すんだ」 「はあ……、君では彼に太刀打ちできないだろう」 「太刀打ち?」 「調べてみたところ、彼はどうやら話す相手をそれなりに限定している。お眼鏡にかなうかというと、君は少々危ない」 「俺だって本はそれなりに読んでる」 「彼の愛読書は海外文学だ。翻訳は嫌いでできる限り原書で読もうとするタイプ。知識がなければ彼に袖にされる」 リース君は尚も食い下がったがわたしは引かなかった。彼に降りかかるであろう事件は何となくだが今回は予想がついていた。本を読んでいる一部の人間はきっとそれに気付いている。わたしはもう亡霊として生きている身であり、マシンは彼の番号を吐き出さなかった。他の人の番号が出る度に彼のことが心配になっていた。マシンの予測は絶対だ。彼の助けを求める声はわたしが手を差し伸べていいものかとても迷っていた。そして#名前2#の番号が出た時にわたしは、手遅れになるかギリギリだろうと思った。キース・デジドーヒェンの怖がっていた恐怖はひたひたと擦り寄って彼の首に爪をかけてしまったのだ。 「君がデジドーヒェンだったのか」 「え?」 「君は君の作品が嫌いかい?」 #名前2#は悲しそうな顔で「どうして分かったの?」と聞く。その声はまだ子どものものだった。大人ぶっていても、お金を稼いで責任を負うことになっても、彼の心はまだ未熟なのだ。 「わたしは……魔法使いなんだ」 「魔法使い?」 「ああ。君のもとにかかる災いを振り払いに来たんだ」 #名前2#は「おれに? そりゃあ面白いね、おれの本が燃えてしまえばいいのに」と笑う。それは困る、とわたしは返した。君の本は大切に本棚にしまわれてるよ、とも言った。#名前2#はまたビックリした顔をする。初めて言われた、と言いたげな表情だった。 この子はどうしてこんなに素直に表情が出せるのに危機に巻き込まれたりするのだろうか、と思う。ほどよい好感は、きっと相性がいいということなのだろう。彼とはずっと話していたくなる。 #名前2#はじっくりとわたしの顔を見てほほえんだ。 「そう? 嬉しいな」 「きみは驚かないね、わたしの言葉に」 「……驚いてるけど、なんとなくそんなことが起こりそうな気がしてたんだ。妹はどうしてるかって聞いたらさ、あいつら、あたふたして言うんだ。今は寝てるって、そっとしておいてやれって」 今は、エレメンタリーに行ってなきゃおかしい時間なのにな。#名前2#は苦しそうに顔をおおった。そして手を離した時には彼はあの可愛らしさを残した青年ではなく何かを決めたボロボロの男がいた。彼の心も体も、もう限界なのだろうと思った。 「妹はもう、良くならないんだろうなって。そう、思ったら、最後にはあいつらに反抗したくなったんだ」 「君の妹さんのご病気は……」 「……白血病」 ドナーが、おれのじゃダメだったんだ。そう言って#名前2#は堪えきれず涙を流した。 キース・デジドーヒェンは新進気鋭の作家である。まるでスローモーションのように刃が首にあたり切られていくように、彼の作品は書かれる度にじわじわと主人公が打ちのめされていく。後書きには毎度「人間の苦しみはただの状態です」という言葉が出てくる。そして「その状態が続き、終わりが見えないと思った時人はそれを属性とします。苦しんでるままで良しとするのです」と言う。苦しみが属性となった主人公はどうするのか、その答えは様々である。男がセックスにハマる姿、自分の妹を売春宿に売る姿、たった一人の親友を殺しに行く姿。彼の作品は痛々しいほどに情けなく、人間の醜い姿があらわれていた。そして最後まで苦しむ。苦しみが終わっていても、それが属性だから。彼らに救いが訪れていても、それに気づかない。 リースくんは最初に読んだときに「これのどこが面白いのか理解しかねる」と言った。わたしは「これは苦しんでいる人たちに向けられた言葉だからね」と返した。 「きみが幽霊となってこんな仕事をする前、死んでもいいとホームレスのようになっていたあの頃。あのときの君は終わりのない苦しみにどう決着をつけようか考えている男だった」 「……だから?」 「この小説の中に出てくるのは、もっと弱くて頭の悪い男たちだ。苦しみから抜け出せるということも忘れて、ただ苦しみ続けているだけの」 「そんな奴らの何が面白い?」 「確かに快はないけれど、でも、わたしは自分が彼らのように苦しみに屈することもあったかもしれないと思うと興味深いと思うよ」 リースはそんなもんか、とまた本を読み始める。フィンチがこうならなくてよかった、と思っていそうな顔だった。 妹さんは無事だよ、と言うと「うそだ!」と言われた。ここが図書館だということも忘れて彼は立ち上がる。跳ねた椅子が後ろの席にまでぶつかりそうだった。周りの人々がわたしたちを見ている。ここで座りなさい、と言っても効果はない。 「本当だ、なにせ魔法使いだからね」 終わったぞ、とリースくんの一言があった。#名前2#がネットで調べて雇った傭兵たちも、彼に小説を書かせていた大人たちも、病院に閉じ込められていた少女も、すべて解決したのだ。 「君の犯行声明もここまでだよ」 おじさん、分かってたの。彼は目をぱちくりとさせてわたしを見ていた。 「もちろん、魔法使いだからね」 「それって、おじさんはストレンジ先生のところで勉強したってこと?」 彼の魔法使いはハリーポッターではなくコミックスの方だったか。 その後の話だが。#名前2#はやはりキース・デジドーヒェンという名前でまだ活動を続けている。彼の作風はがらりと変わり、今では明るい話に変わった。時たま現れる魔法使いはメガネをかけた紳士的な人物らしい。らしい、と言うのはわたしはもうキースの本を読んでいないからだ。わたしにとってのイフの人生をあゆむ主人公たちはそこにはもういない。それに、彼の危機は過ぎ去った。もう関わることもないだろう。ベアーがわたしの足元に寄ってきた。 カメラの向こうではリース君がまた厳つい顔で次のターゲットを追いかけている。彼がいた場所にはキースの本でよく見たナプキンをたたんで綺麗なサークルを描いていた。