明美と

「アンタが宮野明美さんか?」 「え?」  明美が振り返った先にいたのは黒のスーツに黒のオックスフォード、黒のネクタイをつけた男だった。年齢は全く分からない。黒の組織の監視者かと思ったがいつも感じる気配は数は少ないけれどちゃんとあった。 「あのぅ、一体どちらさま?」 「えーっと。シェリーでも、飲みましょうか」  ハッと頭の中に妹の姿がよぎる。両親の血を色濃くついで科学者として最高の頭を持った妹。自分が人質となって妹が働かされている。妹の組織での名前はシェリー。  色んなことがまぜこぜになって頭の中を瞬間的によぎるこれを走馬灯と呼ぶのなら、明美は今ごろには死んでいただろう。 「大丈夫、アンタらを悪いようにはしないよ」  明美は肩を抱かれたまま歩き出す。恋人のことが頭を過ぎったが、彼が妹のコネクション目当てに近づいてきたことは感づいていたし、なにより妹について話を聞きたかった。  連れてこられた荒ら屋のような店の中は少しのあかりと古ぼけたグランドピアノがあった。椅子はなく、立って飲めというらしい。監視者たちは店の中に入ってはこれず、入口と裏口にいるんだろうなと頭を巡らす。逃げる事は許されない。 「よーっす、いるかな長谷」 「ここだ」  薄茶髪の端正な顔をしている男が傾いた扉の奥からやってきた。紫のシャツに黒のスラックスはその男がどれほどの美丈夫なのかを演出させていて隣にいる男もかっこよくはあるが長谷と呼ばれた人の方が何倍もかっこいい。 「……世祖は?」 「こんな昼に連れてこられるかよ。学校だガッコー」 「……そちらは」 「宮野明美さん。んまあ、とりあえずシェリーをこの人に。俺は……あー、どうしようかな」 「いつものじゃないのか」 「んー、今日はお客さんいるからなあ。……フラれた記念にJBのカクテルがいいな」 「わかった」 「ボンドはマティーニじゃないの?」  古い洋画好きの明美は思わず口に出していたが男と長谷はきょとんとした顔を見せて笑い出した。 「こいつがあのボンドのマティーニを飲む? 似合わない…」 「辛辣……。明美さん、俺の言うJBは残念ながらジェームズ・ボンドやジェームズ・ブラックやジャック・バウアーみたいなフィクションじゃなくて実際にいたギャングのボス、ジミー・”ホワイティ”・バルジャーのことだ。知らないかな? FBI史上最も高値の懸賞金がかけられた男。映画にもなってる」 「ごめんなさい、知らないわ……。最近の洋画?」 「そ。不調続きのジョニビが一新して出したハゲ頭の映画」  ああ、と明美の頭に映画のポスターが思い浮かんだ。FBIと議員とギャングの秘密の協定。映画名は……。 「ブラックスキャンダル。明美さん、あんたらの組織にぴったしの名前だよ」  と、ここでなぜ自分が呼び出されたのかを思い出した。いつの間にか目の前の男にペースをとられていたのだ。警戒心が薄れているのだろうか。まさかこの店の中に臭う昔懐かしの古びた匂いが自分の頭を痺れさせたのだろうか。 「#名前2#、イスが奥にある」 「あ?」 「もってこい」  チッ、あいつがいねーとすぐにそんな素振りになりやがる。  男、#名前2#と呼ばれた人は自己紹介もしてくれないままに奥に引っ込んでしまった。ガサゴソと音をたてながらイスを探してるらしい。長谷はそんな音は無視してシェリーカクテルを作り、明美の前に差し出した。 「ありがとうございます」 「いいえ。あの男の奢りですから遠慮なく言いつけてください」  アイツに一緒に嫌がらせでもしましょうよ、という表情を浮かべていう長谷はまるで子供のようだと思った。真面目な顔の時はとても美しいという言葉が似合うのに、こうやって見ると彼はヤンチャな少年のようだった。 「よいっしょ」と#名前2#が黒ずんだイスを2つ持ってきた。ポッケから取り出したハンカチで片方のイスをきちんと拭いたところで「座って、明美さん」と差し出した。 「あ、どうも…」 「いえいえ」 「お前ハンカチは人に渡すためにあるんじゃなかったのか?」 「いやー、人に使うためって言ったのさ俺は」  #名前2#もズボンが汚れるのも気にせずにイスに座り込む。灰色の何かの革製のイスは座り心地がいい。普通のクッションじゃないのか。 「あー、自己紹介してなかったっけ。俺、#名前1##名前2#。偽名ね」 「宮野明美。本名よ」 「ここ、何時もはもっとキレイにしてるんだけどさ。もうすぐ店やめるって言って今はこんなんなんだ」 「へー…」 「んで、やめる店なもんで盗聴器とかもないし長谷がジャミング持ってるから外にもほとんど声は聞こえない。今日、俺が話すのはあんたの妹、シェリーから伝言を預かってきんだ」 「し、…シェリーから?」 「ああ。最近のあんたの彼氏が怪しいことに気づいてるのかって」  明美はぐっと唇をかみしめた。妹も気づいていたのか。それはそうか。彼女の方が組織に深く入ってしまっているのだから。そんな明美を見て#名前2#はカクテルをあおる。 「あんたの彼氏がFBIって、気づいてたのか?」 「………。FBI、だったのね?」 「利用されてた、ってことには」 「気づいてたわ」 「それでも?」 「……よかったの。彼と、偽りでもいいから恋人でいたかった」 「なるほどねえ。そんなに彼が好きだったのか」 「ええ。……妹には申し訳ないけれど、大好きなのよ」 「いいじゃねえの、純愛だなぁ…!」 「え?」 「俺、そーゆーの大好きなんだぁ。そっかそっか、あんたがそうやって分かるんだったら俺は何か言わないでおくよ。あんたには、ちゃんと覚悟があるみたいだしな」  そう言って#名前2#は財布から万札を数枚机の上に置いて「もっと飲んでいきなよ。奢るから」と店を出ていってしまった。長谷と言われた人はそこに立っていてグラスを拭いたりしている。 「……」 「……」  沈黙が流れた。口を開こうか開くまいかもごもごと唇を動かして長谷はようやく口を開いた。 「泣かないのですか」 「え?」 「俺は今日、あなたの愚痴を聞けとあの男に言われてここにいます。あなたが言ってくれなければ俺はここを出られません」 なんて、正直に言う人だろうか。生真面目な顔をして、らしいことを言うこの人はあまりにも人間らしさがない気がする。 「……。好きなのに、利用されてる私をバカみたいと思いますか?」 「いいえ? ちっとも。俺は利用されてる方が嬉しいですね」 「……」 「利用されてる内は価値が見いだせます。でも、使われなくなった後は捨てられるだけです。それなら俺は利用されてる方がいいです」  割り切った考え方だとは思う。でもそれは彼に似合っているもので明美には合わない。明美は人間らしい人間だ。明美は愛されたい。愛した分、それ以上に愛を返して欲しい。思い出を残したい。組織を抜け出して、妹と大君と、私とで。どこか自由な世界に行きたい。  ああ、#名前2#君が偽名と言ったのは大君が偽名なのかもしれない。胸に黒く絡み付いた愚痴と言うべき思いは櫛にからみついた髪の毛のように取れないまま。ただ、泣くことでしか自分は何かを吐き出せない。  散々泣き払った後で明美は店を出てきた。長谷は何も言わずに飲み干されたグラスを片付けている。監視員たちはまだそこにいる。明美はぐっと背伸びをして夜空を見上げた。いつの間にか外は夜になっていたらしい。少し冷たい風を頬に感じて歩き出した。  今日の風はまるで諸星大のように冷たいくせに優しい。こんな所、来るべきじゃなかったのかもしれない。